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鶴見俊輔伝

 投稿者:TN&TN  投稿日:2019年 2月15日(金)14時21分35秒
返信・引用 編集済
  「鶴見俊輔伝」
黒河創、新潮社、2018年11月

(新潮社 https://www.shinchosha.co.jp/book/444409/

戦後日本を代表する思想家の93年の歩み。幼少期から半世紀にわたって行動をともにした著者による、初めての本格的かつ決定的評伝。
 後藤新平を祖父に、鶴見祐輔を父に生まれた鶴見俊輔。不良化の末、渡米してハーヴァードに入学。日米交換船で帰国して敗戦を迎える。その後の50年にわたる「思想の科学」の発行、「ベ平連」の活動、「もうろく」を生きる方法まで。あらゆる文献を繙き、著者自身の体験にも照らしつつ、稀代の哲学者の歩みと思想に迫る。

黒河創:1961年、京都市生まれ。同志社大学文学部卒業。「思想の科学」編集委員を経て、1999年、初の小説『若冲の目』刊行。2008年刊『かもめの日』で読売文学賞、2013年刊『国境〔完全版〕』で伊藤整文学賞(評論部門)、2014年刊『京都』で毎日出版文化賞を受賞。その他の小説に『もどろき』『岩場の上から』、評論に『きれいな風貌――西村伊作伝』、鶴見俊輔・加藤典洋との共著『日米交換船』、加藤典洋との共著『考える人・鶴見俊輔』など。編著に『鶴見俊輔コレクション』全4巻、『鶴見俊輔さんの仕事』全5巻ほか。

 毎日新聞の書評でこの本を知り、図書館に予約した。予約順位は1位だった。1月に借り出せて、借りだし期限いっぱいで一読したが、内容がありすぎて延長して再読したかったが他の予約者がいたので延長できず返却した。その後、直ぐに再予約した。また予約順位1位でした。借り出せたのが2月9日、さすがに2回目は速く読め、今日(14日)、読了。

 1936年、14歳(府立第5中学校2年に編入)の時、2度の自殺未遂と、3度の精神病院への入退院を経験する。「後藤新平」の孫、「鶴見祐輔」の長男と誰にも分かる自分の名「鶴見俊輔」に重圧を感じていたのだという。14歳の時の他に2度の大きな鬱に襲われているが、そのたびに自分の名前が書けなくなったという。
 日本では中学さえも卒業していないのにアメリカに渡り、ハーバード大学に入学する。そして日米開戦後、敵性国民として抑留される。抑留中に卒業資格有りと認められる論文を仕上げ大学に提出。大学は試験管を留置場に派遣し、金網の中で試験を受けさせた。結果として鶴見はハーバード大学を卒業した。
 「大学は、国家から独立した判断をとるという、その筋道を最後まで通していった。」ここにアメリカの凄さを見ることができます。後年、反米的行動を取り続けた鶴見の中にアメリカを信用する気持ちが強かったのもさもありなんと納得出来ます。
 「日米交換船」で帰国、どうせ戦争にとられるなら陸軍より海軍がましと、軍属の独語通訳として海軍に志願。着任先はジャカルタの海軍武官府、ここでインド人の捕虜が伝染病にかかり、薬が不足しているので殺せと、鶴見の隣室の軍属に命令が出た。この事件は鶴見の反戦の思いの原点となっている。捕虜を殺せという命令が自分に与えられていたらどうなっていたか?この自問は終生続いたという。
 第三章 「思想の科学」をつくる時代(1945-59)と第四章 遅れながら、変わっていく(1959―73)がこの本の中心だと思う。
鶴見は「思想の科学」という戦後の思想界に大きな影響を与えた雑誌を創刊し、生涯その編集と経営に関わってきた。京大、東京工大、同志社などで研究・教育にも携わったがどれも「思想の科学」の仕事の邪魔にならない程度にという感じがする。
 1953年に「20世紀の特徴は、大衆の自覚的思索をはばむ力として、マス・コミュニケーションが登場することになるのじゃないかと思うのです」と羽仁五郎などとの対談で述べている。凄い感性だなと思う。
 「思想の科学研究会」は1950年頃、ロックフェラー財団から研究費の援助を受けていた。その流れの中で1951年に鶴見にスタンフォード大学の客員研究員としての招致があり、鶴見は応諾し、勤務先の京大の承諾も得ていた。その時、京大の学生に「原爆展」への賛同の著名を頼まれ著名した。これが理由で、神戸の米国領事館が、鶴見にヴィザを出さなかった。従ってスタンフォード大学に着任しなかった。以後、彼は二度と渡米しようとはしなかったという。この時、鶴見は激しい「鬱」に襲われる。自分の名前も書けないくらいだったという。最年少の京大助教授の職責を果たせないと辞意を上司の桑原武夫教授に訴えるが「君は今病気だ。病気であるうちに辞めれば行き詰まる。病気の間はだまって給料をとっておいて、そのあとで決心したら良い」と引き留められる。良い上司に恵まれたものである。鬱から抜け出し京大人文?に復帰したのが1952年の1月。1954年12月に東京工大に移る。
  第四章は、安保闘争、ベトナム戦争など激動の時代。1960年5月19日、衆院で日米新安保が可決されると、鶴見の盟友・竹内好がそれに抗議し、都立大学教授の職を去る。鶴見もその後を追い東京工大を辞職。そんな熱血教授がいたことをこの本で初めて知る。
 鶴見は安保反対のデモにも積極的に関わる。そして、6月15日、樺美智子が殺される。鶴見はその後ずっと6月15日は衆議院南通用門前で、「声なき声」のデモ仲間と、樺美智子への献花を最晩年に至るまで続けたという。このエピソードで鶴見の情の深さを知る。
 横山貞子と結婚したのも1960年の11月だった。この頃、鶴見には3度目の重い鬱が出始めていた。「あれだけ安保闘争をやったんだから、結婚だって、やれるんじゃないかと思ったんだ」という。
 1961年9月から同志社文学部の教授となる。東京では「思想の科学」の発行を続けるための大きな問題が次々と発生していたが京都では比較的ゆったりした生活が送れた。東京と京都、互いの時間の進行速度がまったく異なるような2段構えの暮らしを持ち得たことが、鶴見にとって生涯3度目の重い鬱からの回復過程で助けとなったことは確かだろうと作者は書く。
 1964年、鶴見夫婦は父・鶴見祐輔の介護のため練馬区関町の家に移る。
 1965年、小田実を誘い「ベ平連」を立ち上げた。桑原武夫ら多くの著名人も「ベ平連」を支援した。1967年には脱走米兵への支援活動が始まった。
 1970年、鶴見は同志社大学を辞職する。学園紛争で大学校内の占拠を続ける学生の排除に機動隊を導入したことに対する抗議のためである。いかにも鶴見らしいと納得出来る。 第4章の第7節(裏切りと肩入れと)に、「私が京大を辞めたことは桑原さんへの裏切り、東工大を辞めたことは宮城音弥さんへの裏切り」だったと鶴見は話していたという。作者は、「自分の考えを貫きながら生きようとすれば、世間に対しては不義理が生じる。逆から言えば、人からの期待を『裏切る』覚悟なしには、我が意を通すことは難しい。」と書く。鶴見に最後まで「肩入れ」した桑原は、「小事はこれを他に諮り、大事はこれを自ら決す」と鶴見に伝えたという。同志社辞職を鶴見は一人で決めた。当時の同志社には鶴見の講義を目当てに入学してくる学生もいたはずで、これもまた、彼らに対する「裏切り」だった。
 第5章(未完であることの意味 -2015)は私にはまだ消化不良だ。もう一度読めばよいのだろうけれどちょっと疲れました。また次回にしましょう。
 ただ、1992年(70歳)から「もうろく帖」を付け出したというのには興味を持った。

 2015年7月20日に93歳で亡くなった。見事な人生でした。

 

春の城

 投稿者:TN&TN  投稿日:2019年 2月11日(月)15時21分37秒
返信・引用 編集済
   雪がまい寒い。

 2月10日は父の命日で、久しぶりに妹と一緒に墓参りした。2月は父の他に、義兄・前田利賢や高校以来の親友だった中西哲夫・小川卓三など身近な人達が多く亡くなっていて故人を偲ぶことが多い。


 偶々、図書館で石牟礼道子の「完本 春の城」を見つけ借り出した。確か石牟礼も?と調べると、やはり昨年(2018年)2月10日に90歳で亡くなっていた。そして昨年の2月には

○「椿の海の記」石牟礼道子、河出書房新社、日本文学全集24 5~246頁、2015年
○「水はみどろの宮」石牟礼道子、河出書房新社、日本文学全集24 247~407頁、2015年
等を読んでいる。


「完本 春の城」、石牟礼 道子、藤原書店
四六上製 912ページ、刊行日: 2017/07、定価: 4,968円

半世紀をかけて完成した大河小説の完全版。畢生の大作!
天草生まれの著者が、十数年かけた徹底した取材調査ののち完成させた、天草・島原の乱を描いた最高傑作「春の城」。取材紀行文「草の道」、多彩な執筆陣による解説、地図、年表、登場人物紹介、系図、関係図を附した完全版!
[解説]田中優子・赤坂真理・町田康・鈴木一策
[対談]鶴見和子+石牟礼道子
http://fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=1551

 900頁を超える本、内容の濃い石牟礼の本、読み終わるのに10日もかかりました。取材紀行文、解説、対談が「春の城」の理解を助けてくれるのですが、私は「春の城」だけをじっくり何回も読みたいと思います。

 (石牟礼独特の)詩のような方言で成り立つ登場人物の世界にすぐに引きずり込まれます。

 ほとんどが百姓や漁師である三万七千の一揆勢で十二万もの徳川幕府の正規征討軍を相手に戦った「天草・島原の乱」とはいったいなんだったのかを、石牟礼の独特の感性で描ききっている。

 殺したり殺されたり、自死も選ぶ人間って? 信仰とは? 民衆をここまで追い込む「権力」とは? いろいろ考え込まされる。

 「天草・島原の乱」のことを書きたいと石牟礼が思ったのは、水俣病患者の苦境を訴えるために原因企業のチッソ本社前に座り込みをした時だという。チッソ幹部に水銀を飲ませるなら、自分も飲もう。そう死を覚悟したときの不思議と静謐な気持ちが、絶対に勝ち目のない一揆を起こさざるをえなかった人々に思いを寄せることとなったという。
 この感覚を理解するのは今の私にはまだ難しい。

 

フクジュソウ

 投稿者:TN&TN  投稿日:2019年 2月 7日(木)17時47分9秒
返信・引用
    春の花たちの目覚めを期待した箕面はフクジュソウだけでした。

 帰りにオシドリ池によりました。















 

オオイヌノフグリが咲き出した

 投稿者:TN&TN  投稿日:2019年 2月 6日(水)11時11分23秒
返信・引用
   暖かい日が続きます。オオイヌノフグリが咲きだし、春間近と感じます。


オオイヌノフグリ



?スミレ



ナズナ



コウヤボウキ



カンサイタンポポ



ホトケノザ











コゲラ



キセキレイ



ジョウビタキ:





 

虹がでました!

 投稿者:TN&TN  投稿日:2019年 2月 4日(月)10時52分23秒
返信・引用
   美しい虹が架かりました。鉢伏自然歩道です。
散歩途中で雨が降り出し峠の手前で引き返しました。
















 

2月2日、丹波のセツブンソウ

 投稿者:TN&TN  投稿日:2019年 2月 2日(土)17時52分57秒
返信・引用 編集済
   丹波市青垣のいつもの自生地では、まだ雪が残っていましたがセツブンソウがしっかり顔を出していました。楽しみだったオウレンは、かたい蕾を2つだけ見つけました。

 毎年、「セツブンソウ祭り」を実施している有名地点ではまだまだのようでした。篠山市にも足をのばしましたがセツブンソウは皆無でした。



















 「道の駅あおがき」でお気に入りの「おいでな定食」を食べました。







 

Kanade

 投稿者:TN&TN  投稿日:2019年 2月 1日(金)17時43分15秒
返信・引用 編集済
   Kanadeの急性白血病の阪大病院における維持療法は2017年12月8日の第一回目の通院(診察・検査)からはじまり、今日(2019年2月1日)の31回目の通院で、通常の診察・検査が終了しました。

 抗がん剤・メトトレキサートの(週一回の)投与は今日で修了、毎日のむロイケリンは2月7日で修了です。

 あと2月13日に1日入院でマルク(骨髄穿刺)をしなければなりません。造血組織である骨髄から骨髄液を採取する検査で麻酔が必要なしんどいものです。これが無事に終わるとやっと維持療法の修了ということになります。以後、3年間は月に1回の通院で様子を見ることになります。

 よく頑張ったなと思います。
 

消滅

 投稿者:TN&TN  投稿日:2019年 2月 1日(金)08時23分46秒
返信・引用 編集済
  消滅
VANISHING POINT

恩田陸 著

超巨大台風が接近、封鎖された空港。別室に集められた11人の中に、テロ首謀者がいるという――。閉鎖空間で推理合戦が繰り広げられる恩田ミステリー、一気読み必至!

書誌データ
初版刊行日2015/9/25
判型四六判
ページ数528ページ
定価本体1800円(税別)
ISBNコードISBN978-4-12-004764-0

(↑ http://www.chuko.co.jp/tanko/2015/09/004764.html

 最近、文庫化されよく新聞広告を見かけ、興味を持ち借りだした。528頁もある長編で最後まで読めるか心配したが、以外と軽いタッチの文章で上品なユーモアがあり一気に読めた。入国前に空港の別室に拘束された11人と「キャサリン」と呼ばれるアンドロイドがいろいろ思索し会話を交わすだけ、同じ状況が延々と続く。これを最後まで読ませる筆力に感心する。近未来のお話しで知らない用語もたくさん出てくる。

 
 

明石市長の暴言

 投稿者:TN&TN  投稿日:2019年 1月31日(木)08時40分24秒
返信・引用 編集済
  「今日火付けて捕まってこいお前!燃やしてしまえ!ふざけんな!行ってこい 壊してこい 今から建物、損害賠償を個人で負え! 当たり前じゃ、はじめから分かっとる話を」
というような発言を切りとって伝えられたので、なんと最悪のパワハラ市長と思いました。

 そのうちに、録音された発言の全文が報じられ、市長も悪いけど、市職員の方がもっと悪いのではと?

 暴言を録音したのが2017年の6月14日、それが選挙前の今になってマスコミに取り上げられた、だれが、どうして今頃、と疑問に思う?

 それで立ち退き問題はどうなっているの?と調べると、暴言の1ヶ月後に解決し、工事は進行中だって。7年間何もしなかった市職員が市長に怒鳴られたので、大慌てで1ヶ月で片付けたというなら、市長の暴言の効果があったのだと思ってしまう。

 人それぞれに価値観や思いは違うというのが良くわかる事例でした。

 「人権派で敏腕、その市長が焦ってパワハラ」、というマスコミのパターン化した取り扱いに疑問を感じます。少なくとも、問題になった工事の意義、経緯、現状をまず明らかにすべだったと思います。
 

寒いです!

 投稿者:TN&TN  投稿日:2019年 1月28日(月)11時24分43秒
返信・引用 編集済
  Toshiko姉の三回忌で(て)は鹿児島へ。
 いつもこの時期は雪が舞う寒い日が続きます。

井上靖「わが母の記」講談社、1975年
 出版された時代のせいか、老耄や耄碌など今では
ほとんど使われない直裁な表現が何度も出てきます。
認知症という言葉がなかったのでしょうね。
 

N響大阪公演

 投稿者:TN&TN  投稿日:2019年 1月21日(月)11時23分56秒
返信・引用
 









 N響の大阪公演(1月20日、NHK大阪ホール、16時から)に行ってきました。
 いつものNHK大阪ホールでのイベントとは違って、座席指定のチケットを事前に購入しているので、ホールロビーでの入場待ちの行列の混雑はありませんでした。席は1階C6列の30と31で演奏者の顔がよく見える良い席でた。ただ舞台に近すぎて後ろにいる管楽器や打楽器演奏者を見にくかったのが残念でした。










 トゥガン・ソヒエウは指揮棒は使わない指揮で、身振り・手振り・指の表情は豊かで見事でした。
 演奏された曲の作者は、フォーレ(フランス)・ブリテン(イギリス)、リスキー・コルサコフ(ロシア)とそれぞれ国が異なりました。

 前半のフォーレとブリテンの曲は短かったこともあり分かりやすく心地よく聴けました。特に楽しかったのは「シンプル・シンフォニー作品4」の「第2楽章(たのしいピチカート)」でした。弦楽器の弦を指で弾いて演奏するピチカート奏法を堪能しました。

 後半の交響組曲「シェエラザード」作品35の題名は「千一夜物語」に由来します。冒頭に2つの重要なテーマ曲が紹介されます。力強くスケールの大きいテーマはシャフリア-ル王を、バイオリンの独奏による繊細で美しいテーマはシェエラザードを表現しているという。この2つのテーマが組み合わさって曲が進行していくのですが、特に繰り返し出てくるバイオリンの独奏に魅せられました。第1コンサートマスターの篠崎史紀の演奏でした。

 トークは皆無、アンコール演奏もなし。予定時間ピッタリにお開き。NHKらしいというか、ちょっと物足りない感じで帰路に。
 

認知機能検査

 投稿者:TN&TN  投稿日:2019年 1月16日(水)13時00分9秒
返信・引用 編集済
   昨日(1月15日火)、免許「更新時認知機能検査」を茨木ドライビングスクールで受けてきました。検査は30分、受検者は25名でした。
 解答用紙と鉛筆が配られ、1問ずつ説明を受けた後に答えを書き込んでいく形式です。

1)今日の年月日と曜日、名前、生年月日、現在の時刻を時計を見ずに書くこと。
2-1)絵(写真も)を1回に4枚ずつ、計4回で合計16枚を見せられ、覚えておけと。
2-2)数字遊びなど他のくだらない作業をさせる。
2-3)覚えている絵(写真)の名前を書けという問題。9個しか思い出せなかった。
2-4)同じく絵(写真)の名前を書けという問題だが、花、果物、大工道具などのヒントが解答用紙に示されていた。12個は書けた。

 今思い出せるのは、眼、戦車、ステレオ、太鼓、万年筆、トマト、ペンギン、兎、
   コート、金槌、百合ぐらいか・・・

3)白紙にアナログの時計の目盛盤を書き、8時20分の時刻を示す針を書き込む


 これで採点され結果が1週間後に郵送される。結果によって、高齢者講習2時間、高齢者講習3時間、免許取り消しに分かれるそうです。

 それは受け止めるしかないのですが、「茨木ドライビングスクール」では高齢者講習の予約はすでに4月の分まで満杯だという、となると私や昨日の受検者のほとんどが免許更新期限を過ぎてしまう。高槻など他所の講習会場を探せという事らしい。何やら腹立たしい高齢者の免許更新システムです。
 昨年の10月に通知が来て、直ぐ予約し1月15日になった。この時からこれで間に合うのと心配ではあったのです。

2019年1月19日(土)
認知機能検査結果通知書・高齢者講習通知書(ハガキ)が来ました。判定結果は「記憶力・判断力に心配ありません」でした。講習は2時間で手数料は5100円です。

 早速、高槻自動車教習所に予約し、3月19日午後4時から講習ということに。更新期限内です。
 

寿新春大歌舞伎

 投稿者:TN&TN  投稿日:2019年 1月14日(月)08時54分13秒
返信・引用 編集済
   初めて「歌舞伎」を観ました。(て)が大阪「松竹座」の「寿初春大歌舞伎」のチケットを手に入れてくれ、1月13日の昼の部を観劇しました。11時開演なので10時半に松竹座についたところ、道路から続く入場のための列が出来ていました。2階1列14番で舞台正面の良い席でした。













 最初の「土屋主税」は忠臣蔵の話で分かりやすく楽しめました。2番目の坂田藤十郎の米寿記念の舞踏は華やかでその様式美は綺麗なと思ったものの途中、退屈で寝てしまいました。3番目の「河庄」の原作は近松門左衛門の「心中天の網島」というので分かりやすいかなと期待したのですが、かなり改作されたものだったので、戸惑っている内に話の展開が遅すぎてあまり面白くないまま終わってしまいました。

 女形の女性美には感動しましたが、初めての歌舞伎には文楽を観た時ほどの感動はありませんでした。まあ知らなかった世界を少しだけでも体験した嬉しさはありました。

 観るまでは読んでもよく理解出来なかった新聞の紹介記事が、すっと読めて理解出来ました。「玩辞楼(がんじろう)一二曲」というのは初代中村鴈治郎が選んだ成駒屋の家の芸ということらしい。なるほどという感じです。













 帰り道、道頓堀・心斎橋を歩こうとしたら、外人観光客で溢れていてうんざり。御堂筋に戻りました。












 

寒くなりました

 投稿者:TN&TN  投稿日:2019年 1月 9日(水)08時49分32秒
返信・引用
  パソコンのCPU温度が25℃まで下がっていました。使い始めて
十分ほど経ってやっと33℃です。適温は40-60℃なのですが・・・

熱いのは大敵なのですが、寒いのも動作が遅く心配です。
 

海が光っていました

 投稿者:TN&TN  投稿日:2019年 1月 7日(月)08時59分53秒
返信・引用
  1月6日の鉢伏自然歩道
 峠から夕日に照らされ輝いている「大阪湾」が見えました。
 帰り道、虹も見えたのですが写真にうまく撮れませんでした。



















 

広岡さんを偲んで 3

 投稿者:TN&TN  投稿日:2019年 1月 6日(日)10時24分29秒
返信・引用 編集済
   阪大時代のことは不思議に良く覚えている。しかし、福井大学に移ってからのことは記憶が定かでないことが多く、色々な出来事を時間順に追うのは至難である。とにかく確かだと思えることだけを記した。

 1975年4月~1978年9月は大阪大学基礎工学部超高圧実験施設の助手だった。川井先生の念願がかなって開設された実験施設、その施設が軌道にのるまでは全力をつくせという意味もあり助手なのに一年間は「学生実験担当免除」という珍しい扱いを受けた。それは有り難かったが、例によって超高圧物理に専念すべきで古地磁気研究には手を出すなと材料工学科(後に物性物理工学科)の教室主任から厳命を受けた。広岡さんの助手時代の苦労をその時、身にしみて知ることになった。しかし、広岡さんのやり方を学んでいたので、私も古地磁気研究から完全に離れたことは皆無だった。この時代に学部学生・院生だった鳥居(岡山理科大)、乙藤(神戸大)、佐藤(広島大)、酒井(富山大)、渋谷(熊本大)の諸君は後に大学に職を得て古地磁気研究者になっている。現役は渋谷君だけになった。
 1978年4月、広岡さんは富山大学理学部教授に転任、私はその後を追って10月1日付けで福井大学教育学部助教授に。大学で講義を受けたのは物理関係だけだった私が地学を教えるのは大変でした。心配した広岡さんが、福井大学で担当されていた科目の講義ノートをすべてコピーさせてくれた。このノートは私には使い切れなかったがどれほど心強かったことか。 1979年7月に川井先生が58歳で亡くなり、私にとっての先生は広岡さんだけになってしまった。
 富山大学と福井大学の学生が一緒になって伊豆半島にサンプリングに出かけたこともある。この時の富山大学の学生さんが先日の広岡さんの葬式に駆けつけてくれていた。
 何回も富山大学理学部の集中講義の講師に呼ばれた。講義は嫌いなのだが広岡さんと逢えるのが楽しみで毎回、引き受けた。私では広岡さんとほとんど同内容の講義しか出来ないのによく呼んでくれるなと感心していた。福井大学では私がいるので広岡さんを講師に呼ぶことは考えられなかった。私に大学院の科目の担当経歴をつけようとしてくれていたのだと後で分かった。福井大学での大学院新設にその経歴は役だった。
 広岡さんが理学部長の任期を終えられた時、今がチャンスと富山大学での藤井純子君の学位論文の審査を頼んだ。快く引き受けてくれた。2002年の3月に藤井君に理学博士号が授与された。
 2004年3月、富山大学を定年退職され大谷女子大学に。定年退職記念(2004年5月1日)のパーティーの帰り、無性に寂しかったことを思い出す。富山大学では学部長などの要職を歴任され多忙過ぎたので、池田市に戻られてからは奥様とゆっくりした生活を楽しんで下さいと願っていた。しかし、2007年に奥様が癌で北野病院に入院された。4月28日にてみ子と二人で病院に見舞いに行った。私の顔を見て奥様が「主人が中島君が来てくれたので喜んでいる」と言ってくれた。広岡さんは後に9月に呑んだ時、「家内が喜んでいた」と言ってくれた。その時はもう癌が脳に転移していた。何も出来ない虚しさをかみしめた。9月4日の朝、67歳で亡くなられた。広岡さんの悲しみの深さを思いつらかった。私や夏原君に出来ることは一緒に酒を呑むぐらいのことしかなかった。
  2009年6月の私の退職記念パーティに、主賓として元気に福井に出てきてくれた。時枝夫婦、鳥居、夏原夫婦、中村、乙藤、酒井、渋谷など親しい古地磁気研究仲間・後輩に囲まれご機嫌だった。福井大学で広岡さんと親しかった教員や学生の大多数にとって、このパーティが広岡さんに親しく接した最後となった。
 2011年9月、中村浩さんの奥様がなくなった。広岡、中島、夏原は通夜と葬式に富田林の竜泉寺まで出かけた。通夜の帰りには3人で梅田で呑んだ。葬儀の日、広岡さんと車で一緒に行くために石橋の阪大下で10時に待ち合わせをしていたが、いつになく時間がきてもこられない。心配していると転んでケガをしたので迎えにこいという電話。びっくりして迎えに行ったが葬式にはそのまま行くという。心配だったが、言い出したら他人の話は聞かない人なのでそのまま富田林に。葬式はなんとかやり過ごしたが、かなり消耗しきっておられたので中村さんに富田林の病院を紹介して貰う。そこでそれなりの検査・治療をして貰いどうにか池田の広岡宅に帰り着いたのが夕暮れでした。後で聞いた話ではその後も何回か転んでいたらしい。これがパーキンソン病の症状がでた最初だったのだろうと思っている。
 その後も研究会や呑み会で何度も楽しい時間を過ごしてきた。パーキンソン病でリハビリに病院に通っていると聞いてからは何となく呑みに誘うのにためらいがあった。そして突然の逝去。悔しく、もっと頻繁に逢っていればよかったと後悔ばかりの今です。

 広岡さんは川井先生亡き後、ずっと古地磁気研究分野の親分でした。サンプリングが大好きで色々計画し研究資金を獲得し、日本だけではなく世界各地に出かけました。子分の私もサンプリングは大好きでした。違いは私は最後まで自分で測定していましたが、広岡さんは多分自分で測定したことはなかったことだと思います。

 最後まで見事な生き方でした。自宅を改装した2世帯住宅で次男家族と過ごされていましたが、日常生活は何でも自力でこなされていたそうです。そして死の直前までお元気でした。延命のための医療・介護をまったく受けることなく逝かれました。

 ご苦労様でした。奥様とゆっくりおやすみ下さい。













 

熊本県で震度6弱

 投稿者:TN&TN  投稿日:2019年 1月 3日(木)19時10分32秒
返信・引用 編集済
  今年も自然災害に悩まされそう。
安心できません。
とりあず情報収集です。

朝になっても、まだ被害状況が報道されない。
震度6で被害が出ないはずがないのに。。。。。

マグニチュードが5.0で大阪北部地震 M6.1 よりは小さいので
被害もややすくないのでしょう。

 

Re: 新年のご挨拶

 投稿者:TN&TN  投稿日:2019年 1月 3日(木)10時01分27秒
返信・引用 編集済
  > No.7095[元記事へ]

pekoさんへのお返事です。

おめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

初日の出のお届け、ありがとうございます。

のんびりした正月です。
昨日は息子一家がきて、てんやわんやでしたが
今日は、朝から箱根駅伝のテレビ観戦です。

今年の年賀状は、「年賀状じまい」挨拶が
ブームとニュースであったのですが、
我が家に届いた賀状は例年通りで平穏でした。
 

新年のご挨拶

 投稿者:peko  投稿日:2019年 1月 2日(水)14時55分26秒
返信・引用
   明けまして おめでとうございます。
今年も宜しく お願いいたします。

 結婚以来 夫婦水入らずのお正月は、初めてでした。
有明海沿岸に、初日を見に出掛けてきました。
今年も、元気に歩いていたいと 思います。

 昨年は、孫姫の為に、4ヶ月費やして、さげもん作りに精を出しました

 

謹賀新年

 投稿者:TN&TN  投稿日:2019年 1月 1日(火)04時01分37秒
返信・引用 編集済
  皆様、今年もよろしくお願いいたします。

のんびりした元旦です。
よく晴れていました。

いつものように新屋神社と真龍寺に初詣でした。

 

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