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一般道としては初めて?

 投稿者:エル・アルコン  投稿日:2018年 5月25日(金)00時00分43秒
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  外環千葉区間の開通まで10日を切りました。開通時刻は16時なんですね。埼玉区間最初の開通から26年近く、あの時も初日に走っており、今回も巣穴から出て走りに行く予定です。
ただR298もあるし京葉JCTもあるしと、どう走るか。何回も「お布施」をせざるを得ないのは仕方がないですが、2日3日の限られた時間でどう効率的に回るか、頭を悩ませています。

その外環関係の記事を発信した「のりものニュース」を見てトホホです。

「今回開通する国道298号は、千葉県松戸市、市川市の一般道としては初めての4車線道路です。」

いくらなんでもそりゃないでしょ。
松戸市内なら既開通区間のR298がまずありますし、R6も市内は全線で4車線です。二十世紀が丘の東西方向の道路も4車線ですし、21世紀の森と広場の横の区間も4車線です。新松戸付近にもありますね。
市川市内もR357が市内全線4車線、市川大橋は6車線、高浜立体、二俣陸橋は本線4車線、側道も4車線ですが。船橋海浜公園から二俣新町、原木ICを通り市松道路につながる道路もR14以南は4車線ですし、R14ですら市川駅前から都県境が4車線。R14からコルトンの横を通りr6の市川浦安バイパスも4車線、今井橋から塩浜に向かう道路も4車線で、福栄から南は6車線です。千鳥町付近にも4車線区間がありますね。

いやいや、どこを見てるんだか。


 
 

LCD化された3007編成に乗る

 投稿者:東怪人  投稿日:2018年 5月24日(木)22時09分43秒
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  こんにちは

昨日所用で京成を使用したところ、やってきた3007編成の車内案内表示がLCDに換装されていました。
3700系はLED表示器をそのまま同サイズのLCDに置き換えていますが、この3007編成は「広告枠+通常サイズのLCD」という、手の入った置き換えになっています。
LCDサイズは3031編成以降の横長タイプなので、例によって日本語固定表示、ひらがな→ローマ字→中国語→韓国語で右側に交互表示のわかりやすいタイプです。
ただ、LCDが置かれたのは換装前のLEDがあった場所のみ、つまり千鳥配置です。これは電気配線等の都合などでしょうがないのでしょうけれども…。

それにしても、漢字5文字読み10文字の「船橋競馬場」が表示されると、
「つぎは 船橋競馬場 ふなばしけいばじょう」と横に並ぶので結構きつめの配置になっています。
まぁ、かつてのセンター競馬場前だったら細い文字になったかもしれませんが。
 

「ぽんぽこ」も捨て難かったが(爆)

 投稿者:エル・アルコン  投稿日:2018年 5月24日(木)22時02分11秒
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  特定地方交通線指定の除外規定、ピーク時1時間1000人は確かに達成できそうですね。久留里方面と馬来田の半分以上がなくなるので厳しいかと思っていましたが、その除外規定はいけますね。東横田までの各駅と、馬来田の半分くらいとしても、確かに楽勝です。
指定自体に無縁だった久留里線ですが、馬来田以南がなければさすがに、と思いましたが、地力がありますね。
「国鉄小湊線」は電化されていたかどうか。房総西線の木更津電化が1968年ですから、まずそれ以降になります。房総西線(内房線)の電化は1969年に千倉、1971年に安房鴨川に至り、1972年の房総一周電化に至りますので、房総東線(外房線)を差し置いての電化はないでしょう。

1973年に東金線、我孫子線。1974年に総武本線、成田線、鹿島線が電化され、1975年のダイヤ改正に至ります。その際に小湊線と南総線はどうなったか。上総牛久以北を1973年に電化し、以南と南総線は非電化。機関区は牛久か木更津か。

ただそこまで刷新するかという感じもするので、国鉄時代は非電化のまま残り、1991年の相模線、1996年の八高(南)線の電化タイミングで小湊(北)線を電化し、老朽化したキハ30系を淘汰。小湊(南)線、南総線はキハ110で置き換え、という感じ。
史実の小湊鉄道も1976年に光風台駅が開業したのに象徴されるように、京葉工業地帯に通勤する人向けの住宅開発がまずあったわけで、1990年代まで電化はお預けと見るのが妥当です。
全線電化は隧道の盤下げの問題もあるでしょうし、小湊(南)線と南総線は非電化で残ったのでは。

外房方面の主力になっていたかですが、南総線は南から茂原駅に入ってきたでしょうから、勝浦方面を南総線経由にしたら茂原でスイッチバックになります。小湊線経由は茂原も勝浦もカバーしないわけで、結局電化などの近代化は外房線になり、小湊線は牛久、大多喜で段落ちするローカル線でしょうね。

久留里線~木原線ルートが成立していない前提ですから、大多喜は途中駅。
五井経由で千葉に向かう軸は確立しているので利用は底堅いでしょうが、ベースとなる人口が厳しいです。そこから勝浦に出ていれば需要もまだマシでしょうが、安房小湊だと極端に少なそうです。養老渓谷を通らないので観光面でもマイナスですし。

そうなると牛久以南、以東の存続問題がくすぶる格好でしょうし、今よりも(いすみ鉄道がない状態よりも)鉄道は減少してしまう可能性がありますね。

あるいは南総線ではなく別表通り木原線だったらどうなっていたか。大原に抜けられる、山越えの建設問題、と来るので小湊線の総元以南は建設されなかった可能性が。
といろいろと妄想が伸びますね(笑)
 

Re: 房総内陸妄想鉄道(ぉぃ)

 投稿者:リリカルゆかりん  投稿日:2018年 5月23日(水)23時23分6秒
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  > No.5818[元記事へ]

エル・アルコンさんへのお返事です。


南総線は木更津側で、特定地方交通線の除外条件であった「ピーク時1時間あたり片道1000人以上の輸送量」という条件を満たしたと思われますから、特定地方交通線とならなかったのではないでしょうか。
また小湊線ともども、電化された可能性が高く(ネットワークを形成していて峠越えのある路線だけを管内で非電化のまま残すことは考えにくい)、閑散区間である、牛久―小湊間は昭和末期まで72系や80系が活躍していたかもしれません。

一方で、小湊線は小湊・鴨川方面への最短ルートになるため、夏季の臨時快速・急行は確実に運行されたでしょうし、場合によってはこちらがメインルートとなった可能性もあります。茂原の需要は無視できませんが、これも牛久経由での東京からの直通列車が走ることはあり得ますし、そうであれば大網駅改良はされず、結果として外房方面も五井から牛久に向かう方が東京直通列車の主要ルートとなり、牛久以北は複線化もされることも考えられます。このルートの場合わかしおの停車駅は、五井・牛久・大多喜・小湊でしょうか。しかし茂原や勝浦よりも需要が乏しく、衰微はより早かったようにも思えますが。

そうなりますと外房線は史実よりも複線化が遅れ、80年代になってようやく蘇我―大網が複線化(以南は単線)、あるいはその時点での国鉄財政を考えると、手つかずのままになって、鎌取の開発が進んでパンク状態になる2000年以降に県と市が負担してという可能性もあります。

なお茂原は貧乏くじを引くような結果に思えますが、千葉からの最短経路はr14のルートであり、京成もここに目を付けてちはら台から長柄を経て茂原を目指した(千葉急行電鉄に茂原市も出資した?)かもしれませんがやはり未成となったでしょうか。もう頑張りしては白子まで延伸し、ここでマリンレジャー開発を大々的にやってとすれば、現実の延伸計画よりポテンシャルがありそうにも思えますが。
 

千葉駅からの優等バス

 投稿者:エル・アルコン  投稿日:2018年 5月23日(水)20時33分30秒
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  千葉中央バスの快速大網線は、外房線の早朝の上総一ノ宮行きが土休ダイヤでも運転されるようになったことで乗りに行ける、と思っているうちに機会を逸してしまいました。

1980年台前半の記憶ですが、路線バスの「優等」は結構ありましたよ。
千葉中央バスの快速大網線は、誉田行きまでが普通便で、大網行きが快速でした。(土気行きはなかった)

小湊が一番賑やかで、観光タイプを使った茂原急行、前中扉だけどカバー付きの2人掛けシートが並ぶゲテモノ?が充当された大多喜急行の両急行バス。大多喜、牛久への準急バス。茂原街道から分かれて長南車庫に向かう快速バス(のちに大多喜行き)が長距離便。

市内近郊では白旗行きが千葉寺経由、末広町経由、今井町経由、新今井町経由で快速便があり、淑徳大学大巌寺行き(千葉寺経由)、北生実、農業センター、落井椎名小学校行き(末広町経由)も快速でした。
変わり種はR16(産業道路)経由の辰巳団地労災病院行きが特急を名乗り、それぞれ「快速○○○経由」「特急産業道路経由」の副標をドア側のフロントガラス下部や満員札のところに出していました。

京成は成東行きの急行。フラワーライナーの祖先で、R126経由で中野操車場まで通過運転でした。
このほか蓮沼南、南浜行きの特急バスがあり、観光タイプの車両が充当されていましたが、晩年は一般車となり、ちょうどその時期に試乗した際に一般車が来て、しかもR126経由(東金市内まで中野操車場のみ停車)だったことに落胆した記憶があります。
余談ですが、新小岩-TDRの特急バスはその時以来の一般車特急ですね。

長距離便は小湊が姉崎行き、京成が成東行きの他、八街行きが吉岡経由と川崎十字路経由。四街道経由の京成佐倉行き、勝田台行き、八千代台行き、津田沼行き(畑町経由、広尾経由)あたりでしたね。



 

房総内陸妄想鉄道(ぉぃ)

 投稿者:エル・アルコン  投稿日:2018年 5月23日(水)20時32分28秒
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  「房総横断ルート」最大の謎は、改正鉄道敷設法別表に木更津-茂原ルートが採択されなかったことでしょう。採択されたのは木更津-久留里-大多喜-大原ルートと上総湊-鴨川ルート、そして八幡宿-大多喜-安房小湊です。

大多喜がジャンクションとなっており大多喜の重みが分かる感じですが、史実はかなり異なった結果となりました。上総湊-鴨川ルートが採択されるのであれば、木更津-茂原ルートも当然あって然るべきですが、なぜ採択されなかったのか。

南総鉄道は鶴舞町をまず目指しましたが、市原市域に入ったところで力尽きており、郡境を越せなかったわけではありません。ただ終点だった奥野から鶴舞を経て現上総鶴舞までは高低差があり、台地の下、養老川沿いの鶴舞町駅へのアプローチはひと波乱ありそうです。上総鶴舞の構内が結構広いのは南総鉄道を想定していたのか気になるところです。
あとは鶴舞から平岡へはちょっとルーティングが難しかったかもしれませんが、それでも全通すれば一番期待が持てた路線です。

小湊鉄道となっているルートも別表ではR297のルートになっており、実はこっちの方が期待が持てたのですが、現在の市原市、大多喜町の境の片峠が難物です。いまだに改良されないのも謎ですが、ここをよじ登るにはハーブガーデンのあたりまで進んでから斜面に取り付き、東から西に向けて高度を稼ぎ、若干西側で市原市側に入るイメージでしょうか。ただ迂回による距離のロスも、上総中野を回ることを考えれば近いでしょう。

その後を想定すれば、総元付近からR297に沿い、さらにr82に沿って夷隅川上流域に入り、どこかで小湊側の谷筋に向けて峠を越えますが、そこのルーティングがかなり難しいですね。おそらく興津か勝浦に出るように変更したでしょう。

久留里線は木更津-茂原ルートがあれば大多喜に向かわず、r24沿いに鴨川を目指したか。なければ大多喜を目指しますが、小湊線が大多喜を経由していたら、大原へ抜ける路線の利用はかなり少ないはずで、大多喜止まりになるか、あるいは久留里以南を手堅く建設しないかのどちらかでしょうか。

妄想版房総内陸部の鉄道網としては、
「国鉄南総線」木更津-横田-上総牛久-上総鶴舞-笠森-長南-茂原
「国鉄小湊線」五井-上総牛久-上総鶴舞-大多喜-総元-安房小湊
(別表採択後小湊鉄道は買収され、鶴舞町-里見の建設はせずに大多喜を目指した)
「久留里鉄道」横田-馬来田-久留里-松丘
「夷隅鉄道」大多喜-国吉-大原
が整備され、民営の久留里鉄道と夷隅鉄道は戦時の不要不急鉄道の休廃止の中で廃止されて復活せず、という感じ。

南総線は第2次特定地方交通線指定となり、木更津口はそれなりの利用があることから第三セクター「かずさぽんぽこ鉄道」(笑)として木更津-上総牛久間のみ存続。ただ、路線の半分だけ廃線というのは例がないので長南町、茂原市の反発が強かったが、牛久、鶴舞を挟んで輸送量も段違いで運行も分断されていたので、最終的に東半分のバス転換を受諾した。

小湊線は五井口での通勤輸送で指定を免れるが地方交通線扱いとなり、もともと大多喜以南の利用が極端に減少しているなか、鶴舞以南の減少も近年顕著になっており、地元では区間廃止に対する危機感が出ている。牛久以南を「かずさぽんぽこ」が引き受ける案も出ているが、現状は表立った廃止の申し入れはない。なお最近は牛久以北を電化して千葉直通を果たすのとセットで南部の「かずさぽんぽこ」転換を飲むという案も出ている。

という妄想も楽しいものです(爆)

 

大網→千葉の快速バス

 投稿者:神奈中沿線民  投稿日:2018年 5月22日(火)19時51分58秒
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  千葉中央バスに、大網発千葉行の快速バスが運行されています。このバスは途中誉田駅~千葉駅間が「快速」で一部のバス停を通過します。

土休日の朝、片道1本のみの運行ですが、昔は千葉駅発着のバス路線ではこのような「快速」は結構運行されていたのでしょうか?
 

房総半島内陸部の鉄道建設

 投稿者:リリカルゆかりん  投稿日:2018年 5月22日(火)18時33分31秒
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  房総半島横断ルートで最も需要があるのは、R409に沿う
木更津ー茂原を牛久経由で東西に結ぶものですから、南総鉄道が全通していればとは思いますが。同時期に建設がすすめられた地方私鉄同様、南総鉄道も国による買収を期待していたものといえますしその可能性が低いと判断された時点で早々に見切りをつけたというのが真相でしょう。

半島内陸部の中で有力地点といえるのは、大多喜のほか、牛久(戦前期までは鶴舞の方が有力でしたが)と久留里であり、大多喜と久留里を通るという意味で木原線のルート選定にも理があります。そうしますと大原を起点としたかですが茂原から大多喜に向かう場合、低いとはいえ峠越えがあり、前身の人車軌道では平坦ルートの選定が絶対条件ですから夷隅川に沿う大原ルートが選定されたと考えれれます。

中野ー亀山の峠越えはより険しいですが、昭和期には土木技術も進歩していた一方で、夷隅軌道がすでに存在していることから、それを活かす方が安上がりなこと、すでに開通した地域の既得権があることからこのようなルート選定になったといえます。当時、大多喜からどこに向かうにも舗装道路などなく小型のバスやトラック1台で間に合う程度しか1列車当たりの輸送量がなかったわけではないですから(部分開通であった南総鉄道は輸送量が非常に少なく、それで間に合うと判断されたといえます)将来の横断鉄道に懸けたのでしょう。未舗装の道路が相手であれば大原に出てから、茂原に向かうくらいの遠回りは問題になりません(外房線も茂原や鴨川から千葉へは遠回りですが、茂原に関しては短絡ルートを走るバスの方は撤退してしまいました)


一方図らずも婚姻相手となって しまった小湊も、中野から険しい清澄山地を越えて
小湊というもやや無理があるルートに見えますが、誕生寺という観光資源があり、当時の安田財閥のトップ安田善次郎は仏教の信仰篤かったため、資金提供を受けるためにもそれを名目としたというのが最大の理由のようです。

ただ地形の制約さえ解決できれば、千葉から小湊・鴨川へ向かう最短ルートになったのは事実であり、五井から千葉市方面への独自ルートも確保して、路線の高規格化も果たしていれば小湊鉄道も沿線風景もまるで違うものとなっていた可能性はあります。
 

早くも7月用の取材(苦笑)

 投稿者:エル・アルコン  投稿日:2018年 5月20日(日)23時48分35秒
返信・引用 編集済
  さて巣穴に戻る前に北千葉道路などを見てきました。あまり行く機会がなくなったので、はやくも7月の半期報告書の取材です(苦笑)
そうそう、東成田のイベントは行きませんでしたが、大行列だったそうで行かなくて正解だったようです。と思っていたら、ポストカードがなくても入れたようですね。1000人限定だと最後の方は閑散とするはずだし、と想定していましたが、その勘を信じて行けばよかったか(苦笑)

八代の終点は十字路が出来上がった格好。舗装はしていませんが隅切りなどもはっきりして、角によっては出来上がっています。ただ、松崎への市道の調整池を交わして元のルートに戻るところのクランクは直す気があるのか。現地に掲示されている工期は来年2月末なので「ぼちぼち」なんでしょうか。

八代地区の盛土区間は下から見るとかなり様になっています。松崎TNを遠望できる地点から見ると、向こうの空が見えてトンネルが貫通していることが分かります。そして線路と道路沿いに台地に上がる道路はさすがに「車両進入禁止」の立看は消えていましたが、何度見ても「廃道」があからさまにわかるこの箇所、経緯を知りたいものです。

湯川駅側はあまり変化なし。高架橋の橋桁があとちょっとでつながる感じ。NTから来る都計道は我孫子線旧線の盛土手前まで出来て、盛土の取り崩しを待つ格好。反対側も盛土手前まで出来ていますし。この都計道とを結ぶランプですが、新鎌ヶ谷方向は上下線からのランプになっていますが、成田空港方向は西行きから外側に振って本線を潜るランプ路だけが建設中なんですよね。東行きはどうやって入るのか気になる構造です。

大谷津のTNも貫通していますが、そこからR408まではまだまだという感じ。成田線までは工事していますがそこから先もまだ。
R51との交点付近、取香川の橋の北側の拡幅用地はいったん整地したところで中断してしまっています。

今回の目玉は4月13日に変化したR408の北千葉道路との交点付近。4車線となるR408は北行き2車線の位置に変更していました。工事区間のエンドは従来線とかなりズレていましたが、手前から合流する格好でクランクにはなっていませんでした。沿線の民家などが南行き車線の開通まで道路に面さなくなるので、旧道の形で残していますね。

あと、我孫子線の上記都計道との交差用の橋を含む新線に切り替えも4月14日深夜に実施されましたが、これも乗ってみました。
まああっけなく、という感じではありますが、いきなり高規格な新線の区間というのも面喰いますね。成田NTとそんなに離れていないところを走っているのに、成田駅を出てから里山の中を走る感じでしたから。



 

別表の区間も微妙

 投稿者:エル・アルコン  投稿日:2018年 5月20日(日)23時25分31秒
返信・引用
  木更津から房総半島横断というとまず思いつくのは茂原方面であり、圏央道やR409も通っていますが、別表に指定されたこととがないんですよね。房総半島では小湊鉄道のルート、久留里線~木原線のルート、上総湊から鴨川のルートが指定されていますが、最後の鴨川への道も保田からの日東バスのルートから山越えで上総湊へ出るなど一筋縄でいかず、政治的思惑とかの産物なんでしょうね。

茂原ルートは県営人車軌道から南総鉄道となりましたが、普通鉄道としてはわずか9年で破綻しています。
木原線ルートは大多喜の存在がそれでも大きかったのでしょうが、「大多喜10万石」とはいうものの、厳密には本多忠勝の所領は「あわせて」10万石であり、以後の大多喜藩は他国の飛び地をあわせて1万~2万5千石なので、純粋な版図としてはそう大きくはなかったようです。それでもかつては県の出先などもありましたが、これも千葉~市原~勝浦を結ぶR297の街道沿いという面が大きかったと思います。

 

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